昭和五十七年八月二十二日 朝の御理解


 御理解第五十八節
人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人を     しておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。


信心辛抱という事が言われます。信心辛抱という事は、信心辛抱の徳が身についてくる 事です。ですから、辛抱と言う言葉すら段々無くなってくるのですね。ですから、やはり辛抱という時は辛いです。何でも。それは形の上においてそうです。また、心の上に感ずる辛抱もそうです。その両面がね、やはりいるし、これは何事にもよらずですけれども、信心の場合これは信心辛抱とこういわれますから、いわゆる神に縋がって辛抱せいよとこう仰せられる、その上に縋がっての辛抱です。
小倉の初代は大変厳しいお方であって、奥様にも大変な無理難題をおしゃったらしいで すね。二代金光様、四神様のお世話で小倉に見えておられたんですから、ある時にもう耐えられずに御本部に帰られた。もう他の辛抱ならどんな辛抱でもします。だから、もうこの辛抱だけは出来ませんというて四神様にお届けをなさると、「その辛抱出けんところを神に縋がって辛抱せえよ」とおしゃった。辛抱が出来る辛抱なら出来る、出けんところを神に縋がって辛抱せえよと、それがいわば信心辛抱だと思うんです。ね。二代教会長として、やがて八十何才でしたかね、長居のおかげを頂かれて、桂先生は早死でおありになりましたけれども、二代を継がれるああいう、いうなら九州中の信奉者から、教母様、教母様と慕われるお徳を受けられたんですね。あん時に、もし辛抱が出来とられなかって普通から言うたらね、ならあの二代の小倉ミツ先生はなかったんです。
信心辛抱というのは、神に縋がって辛抱せいよという事なんです。そこから不思議な力 が沸いてくるんですね。形の上にも心の上にもね、乞食だ、泥棒だと例えば腹を立てるような事いわれてもです、これは心で耐える事でしょうけれどもね。神様が見ておいで、神様が聞いておいでの世界、神が見ておるシッカリ信心の帯をせよと、そのシッカリ信心の帯をするという事がいるんです。
昨日、ここの中原修行性が丁度昨日退がろうとしよりましたら、もうやっぱり御礼のお 届けを申し上げなければおれない事ばかりでしたからというて、今度の英語の講習会に参加しております。それで、松本という先生と夢の対談をなさったというのが英国の方でアランさんという方、なかなかそのう、東京から北海道まで歩いて行かれたというような、兎に角私共より色んな日本の事が詳しいという熱心な方です。まだ三十六才で独身という事でしたが、私の所に見えて、このお祭という事についてね、その自分は研究をしているという事、私共がいうお祭とは違う訳ですね。たとえば熊本の五木の、あの子守唄で有名な五木あたりまで行かれて、五木あたりで昔から伝わっておるあの民芸、なんとかというようなね。ああいう何々祭、久留米祭なんかでもそういう類のものなんですけれども、その祭という事を合楽におられる間にです、自分がそのイメージというものが全然変わって、今度の合楽での講習会は、講習会ではひとつも僕は得るものはなかった。ところが、合楽に御縁を頂いたという事がというて、四時間も中原君を捕まえてお話しされたという事ですね。
僕がここへ来て羨ましいと思ったのは、ここの会う先生方、修行生の方達またここに参 拝をしておられる方達が、そのどなたを見ても嬉しそうに楽しそうにしておられるという事は、僕はもう驚きでしたというて言われたそうです。
特に、勝手の方で御用頂いておる婦人の方達、またここの子供達までが、だから毎日僕 はここの子供達と一緒にお風呂に入るのが楽しみでしたち。もう今度の講習会では、あの得る所はなかったけれども、合楽に御縁を頂いたという事がもう大変な僕の収穫だったというて中原君に話されたという事でございます。
私共、そげん別に嬉しいとか喜ばしいとかしとるようには思わせられんけれども、ね。 僕も、日に一回か二回位は嬉しいなと思う事がある。けれども、ここの人達はつも嬉しそうに、その喜ばしそうにして一生懸命御用頂いとられるのを見て、それが羨ましいと言うて話されたという事でございますがね。
ま、ここで裏の、今年は婦人会の方達が勝手の御用をして下さいましたから、勝手の方 達やら、特にあの修行生の先生方と触れあっての、ま、実感だったと思うんですが。いつの間にかです、いわゆる信心の帯がシッカリ出来ていきよるというふうに私は思います。その、それは内容はどうかわからんけれども本当に何か、こうしるしさというものを感じさせない、嬉しい喜ばしい、ね。それが本当なものになって行く時に、初めて今日のような修行が出けるんじゃないでしょうかね。
日に一回か二回かは嬉しいなあと思う事があるけれども、ここの方達の場合は、も、い つ誰と会うても嬉々として嬉しそうにして、ま、御用頂いておられるという事。僕は、これが一番ここへ来て羨ましくも思ったし、また合楽に御縁頂いた事が今度の、も、どこででも得られないね。講習会では得るものはなかったけれども、ま、かけがえのない何か良いものを、まあこれは松本先生の言葉じゃないけれども自分の人生観が変わったといわれるような意味の事を言われたという事でございます。ね。
だから、これはお互いいつの間にかね、いうなら合楽理念が身についていつも嬉々とし て喜ばしゅう、いわゆる活動させて頂いておるという事がですね。特に、なら外人の方が見られる目というものは、また私共とは違うでしょう、ね。本当に、ま、素晴らしいと言うふうに見られ、その素晴らしいと見られる程しに段々変わって来ておるから、それが内容においてです。んなら、どういういうならば乞食じゃ泥棒だと言われるような時にあってもです。それが、ね、全然楽しゅうとか、嬉しゅうとかという時にはこたえないですむ所まで、私は、私共の日々の生活が有難いものになっていかなきゃならないというふうに思います。
昨日、中原さんが言うておりますようにその四時間もの間、中原君を捕まえて合楽の、 ま、その事について一生懸命お話したわけでしょうけれどもです、ただここで皆御用頂いてよそに行ってから見られない、よそでは感じる事の出来ない皆さんの態度とか様子とかを見て感心した、とこう言われるんだそうですがね。
だから、みかけはそういうふうに段々出けて来ておるのですから、その内容もまた、な ら、どういう事があってもビクともしない、どういう事を言われてもそれをドッコイと受ける。また、全然感じずに受けていけれる。ま、昨日の御理解からいうなら、豊かさですね。ま、たとえどんなに馬鹿阿呆と言うても、ま、その言うておる方が何がどこが俺が馬鹿かというのじゃなくて、小さい子供がね、馬鹿というても腹をたてんようにね、そういう心に差が出けるという事が、私は信心が段々いうなら御理念が段々血に肉になっていきよる事だと思います。
それにはです、ね、場合には泣く泣く辛抱しいしいという所もある、いわゆる神に縋っ て辛抱するという、その辛抱力をいよいよ辛抱という言葉を使わんでよいほどにそれが出来上がった時、私は本当に合楽理念が身についた時という事になるのじゃないでしょうかね。一つひとつカチッときた、いっちょいっちょ、も、ムカッとしたと言っとる間はね、合楽理念がです、身についたとはいえません。
そりゃ、段々上辺だけは、ね、信心のいうならこう嬉々としたふうにみえても、内容が そういう働きをおこせれるような心の状態を目指して信心せよという事ではないでしょうか。
シッカリ信心の帯をせよ、という事はそういう事が平気で受けられるようになるという 事、もし、そこにカチッとしたとかムカッとしたとかいうなら、いわゆる信心の帯が本当にまだシッカリ締められていない時であると悟って、ね、次の信心に進んでいく修行、手立てを講じなきゃいけないと思うですね。
                                   どうぞ